イエスの時代に生きていた人物 ースディという名の偉大な教師ー と会話するのは、素晴らしい経験でした。 スディはクムランに住んでいたエッセネのコミュニティがどのように暮らしていたかとても込み入った祥細を、そしてイエスがそこでどのように勉強したか教えてくれました。
スディはまた、イエスの磔刑に関する難しい詳細を説明してくれました。多くの人々がそのような話に興味がありますが、私はそれだけに固執することは彼の言わんとすることからかけ離れてしまうと思います。
キリスト教の教義のひとつは、個人的な責任の概念が重要だということがわかりました。スディとして過去生を再び生きたケイティと私の何回もの回帰セッションの間に、救い主としてのイエスの役割についてスディに尋ねました。
私が得た答えは、想像以上のものでした: “どうして彼が誰か他の人の罪のために死ぬことができるのだ?あなたは、全て自身で償わなければならぬ。今生でなければ、おそらくその次の生、それか次の次の生。何はともあれ、最終的には、あなたは他の人が、あなたのために耐えてきたものを耐えなければならないのだ。 “ とスディは教授しました。
これはキリスト教の核となる信心ですので、私は明確にするために再びスディに尋ねなければなりませんでした。彼は、答えました。”グレース(恩恵)の法則がある。 しかし、彼はあなたの罪のために償ったのではない、あなたたちがイエスを価値ある人物であり、神の使者として彼を受け入れたからだ。グレースの法則は、あなたたちへの神の愛であり、イエスはあなた達の罪のために死んだのではないのだ “。
スディは、続けました。”イエスはそれを行うことができることを示したのだ。したがって、彼は驚嘆されるべきではあるが、礼拝されるべきではないのだ。神格化されるべきではないのだ、なぜなら、我々はみんな神の一部なのだ。一部のもの達は他のもの達より分かっておる。私はイエスがこれらの人々の一人と言える。イエスの能力で、彼を神格化し、他の人と区別するのは、間違っている。”
私は、はりつけの目的はどの道をとるかの、鮮やかなコントラストを示すことであったと信じています。私は、イエスキリストの具現で、神が人類に選択肢を提供していたと信じています。利己主義の道にとどまるか、イエスの残した足跡を生きて、この世の混乱と暴力を超えて上昇するか。誰も、私たちのために選択することができません。最終的には、私達自身が決定しなければなりません。
このいう意味で、イエスは真に人類のために死にました。イエスが生きていなかったなら、完璧な人生の模範がなく、多くの人々が、まだ暗闇の中で手探りをしていることでしょう。私は復活の目的は、多くの人々にとって失われたものとなっていると信じています。神は、物質的な世界よりもはるかに多くのものがある事を私たちに見せるためです、スピリットや魂が永遠であることを。
イエスは、地球上で悟りを開いたので、再びここに転生する必要はありませんでした。今だ、何生も何生もレッスンを繰り返し、目標に向かって生きている私たちの多くとは異なり、イエスはマスターになりました。彼は、私達が従うべき美しい例を残してくれました。
イエスの復活は、私たちの魂は永遠 – 私たちは死ぬことができないということを私たちに教えるために行われたのです。
Dolores Cannon
ドロレスキャノン
今回のメッセージには、ハートが深くうなずきました。
利己主義、利己的な意志と生き方も、利他的な意志と生き方も、もっと建設的に使えるのに私たちは、否定的に使ってしまうように感じます。
利己的な意志と生き方も利他的な意志と生き方も建設的に使いたい。
そうやって暮らしている自分の背中を見てもらえるような、そんな生き方に変わりたい。
まさに、今、自分が求め、目指したい向きです。
誰もが、そういう風に考えるようになるとこの地球もどんどん変わって行きますね。素晴らしいことが動きだしています。
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